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昭和45年02月15日 夜の御理解



 もう本当に頂こうとする精進、様々なその為に精進をする訳です。本当に神様が頂ける為に、分かる分からせて頂くために精進をする。それには、例えば御理解十二節に「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ 空が神下が神」と仰せられます。

 これはまあ、天地がそのまま神様だと云う訳なんでしょうけれども、その、神様にほんに会おうと思えば、本当に此の神様におうた実感と云うかね、本当にこの神様を天地から感じられると言う事は、庭の口に出て見ただけでは分らないて、いう事は、私はその庭の口を出て見よ、空が神下が神と云う事は、全てが神様なのだから。
 自分の周囲の全てを拝む気になると、云った言った様な精進から、そこに神様から現れたもうと云うか、神様を感じる事が出来る様になると思うね。だから全てを拝むと云う気持ち、そこから神様を感じられ、所がその全てを、この拝んでいる様であって拝まない。拝まない所か、返って神様の気感に適わんと、云った様な事どもが多いいわけです。
 今朝から、今日私が午前中の奉仕の時でしたが、北野秋山さんが朝お参り出来なかった。昼ちょっと前に参って来ました。そしてあの先日13日会の時に、あの伊万里からお参りをして来る中村さんと云う方が「大体神様のご気感に適うと云うが、大体ご気感ちゃどう云う事でしょうか」と云うて、隣にいた富永さんに尋ねよんなさった。
 「さあ、どう云う事でしょうかね、私はまあ、神様の心に適うと云う事ではないでしょうかと思います」と云うて、まあ、返事をして居られた。秋山さんもそれに対して、色々こう説明した。誰さんもこう云うふうに説明されたと。まあ云うなら、き気感と云うか神の気感に適うと云う事を神様のお心に適うと云う様な、そういう風に説明をして居りますですね。
 それで良かったでしょうかと云う訳なんです。皆さんはどう思われます、日々まあ「お祝詞の中にでもそんな言葉がね、神の気感に適わぬ事どもを見直し聞き直し」と言った様な風に、ですからその神様の気感に適わんと。
 これはまあ、色々あろうと思います。その神様の気感に適わんと言う事がです、神様とこう絶縁状態になるのですよね。神様の気感に適わないと云う事は。ですからそこで、神様に会おうと思うたり、神様を頂こうと思うたり。
 先日13日会の時に博道君が云っています様に、僕は神様が信じたいとね、だからその本当に神様を信じたいために修行をして居る。もう、言いたい事、これに対しての言いたい事は、一杯あるのだけれどもと云うて、言葉短かに云って居ります。
 その神様を信じたいと、神様を信じれれる所に私共の安心があり、又は幸せがあると云う事をまた、気付かせて頂く所からですね。神様を分かりたい信じたいと云う様な心が生まれて来る。
 ならばです、神様に会いたいと云う様な心なのですから、矢張り外へ出てみよ、庭の口へ出てみよ、空が神、下が神と言う事は、全てが、神様のお姿だと云う事なのですから、皆んなを拝むと云う、どの様な事柄でも拝むと云う姿勢、そう云う態度の中から神様に会う事ができる。神に会いたいと思えば。神様と通う事が出来る。
 そう云う精進をしながらもです、例えば、絶縁状態になると云った様な事。だからこの、お心に適うと云うだけでは、違う事ではないけれど、ちょっと言葉が足りない様だねと云うて、私が、知っておる限りの気感と云う事について、説明させて頂いたんですけれどもね。
 気感と云うのは、気と云うのは心。感と云うのは矢張り、例えばどうも感に障ったと云う事を申しましょうが。ほんのちょっとした、表現が言い方がです私の、ガクンと来たとか、感に障ったとかあれなんです。感もう常日頃あれ程なら一生懸命のご修行が出来て居られるのにです、その何か知らんけれどもそのまあ、感に障ると云うかね、様の事を。
 そん人いろんな事を その人の行動がね、言う事と行う事の中にです、感に障る様な事を言うたりしたりする人が在りますよね。私共でも大いに在りましょう。そう云う時にはね、神様と絶縁状態に成るのです。さあ特別のねお粗末ご無礼と云った様なもんでなくても、ちょっとした事や、ちょっとした態度やらちょっとした例えば、言う事がですね。
 まあこれは一番はっきりしたのが私の両親です、おじいちゃんとおばあちゃんと、今は同じですけれども、若い時には、家のおじいいちゃんの場合はですね、その、言う事される事がその、感に障る様な事が無いです。所がおばあちゃんが言われると、何とはなしに腹が立ってから「そげな事言うちから」もう感に障る事をチカッとこう、もっておられるですね。私共の子供達もそうです。
 例えば光昭と勝彦を揃えますと、光昭はなんとはなしに障らんのです。言う事する事が。所が若先生が言う事はです、何とはなしに、こう感に触ったりする様な事があるですね。ですからそれはその、まあ私なら私としてはです、それをその感に障って居るこちらが馬鹿らしいから、まあこちらが大きく成る事の為に努めますけれどもですね。
 そう云う様なものが信心によあって、神の気感に適うた氏子と仰る。親子孫三代、信心が続いて、人間と身代と達者が出来た。あーその、家のうちやら人やらを神の気感に適うたと云われるが、私共が信心していよいよ円満な信心が出来る、いわゆる、おかげの受けられる信心が出来れる。
 神様に障る様な事の無い様な、心の状態の信心が三代続きゃあ、成程人間が出来た訳であり、成程これなら、財産も出来るであろう、又子孫も続くであろう。ですから、私共のちょっとした不心得とか不注意がですね、なら言う事する事がです、これは人間の場合でもそうですから、神様の場合でもそうです。
 まあむしろ鈍感というかね、ぼんやりしておるとか、かえってそういう人達の方がですね、あの、感に障る様な、ただ何されたっちゃこの人ばっかりはもう、ふうたらぬくかと云う位な人は、そう感に障らんですけれども。
 チンといえばカンち言うごたる人の方が、良い時には良いけれども悪い時にはカンに触る。それがなら、神様に向けられる感。神様のいわゆる感に障る。たいしたそれはお粗末ご無礼、日頃あれだけの信心修行を認められながらもです、その時々感に触る様な事をするので、神様とは、絶縁状態になる人が多いですね。
 私今日はその事を説明しながら、はあー本当に随分そう云う様な人があるなあ、自分で気付かんまんまです、だから折角これだけの信心が出来て居る。折角是だけの修行が出来て居るのにですね、神様の感に障る様な、言うたりしたりする様な事がです、合ってはならないと云う事。
 いわゆる、あれも是も、一切を拝むと云う心のない所にですね、只今私があの両親やら子供達の事を申しましたが、これはま人間的なもんであってですね、勿論それが、人間的にそういう言われる事は、穏やかな事ばっかり言うて、円満なふうに言われると云う性格の人がありますが、だから信心はそうじゃない。
 信心によってそう成られた時、信心によってそう云う円満な心が、段々出来て来る時、周囲の全てを拝む事が出来る様になる時、だから、一生懸命の信心修行が出来て居られるにもかかわらずです、時々、神の感に障る様な事を言うたりしたりする様な事が無い様に、心掛けなきゃならないなと云う。
 私は今は、神様の心に適うと云うよりも、もっと微妙なですね、所のこれは、あのお言葉の表現だと思うんです。神の気感にかなう。その事を私説明する為に、私こんな事も申したんです。
 昨日私、遅そうからお風呂に入って、家内が一人で入って居りました。それでもう家内は、私の背中だけ流してすぐ上がった。私はまだゆっくり入って上がらせて頂いた、何時も、お風呂の中で使う洗い糊の様なものが、あの、お風呂の渕にあげたままあがってるんです。
 私は、あの、あすこ何もかも片付けてあがらにゃないと気がすまんとですから、それも一緒に、私石鹸箱と一緒に片付けて、私はあの脱衣の箱の上の方に、何時も自分の石鹸をあげるのですよ。
 そこへ私、家内の洗い糊も一緒に上にこう上げさせて頂いてから、こげん高かとこにあげとったっちゃ家内が届かんと思うたからまた、それを下の段に、置き直したのです。そしたら、なんかそこに感動が湧いて来るんですよね。たったそれだけの事。
 はあそんなら私もいっちょ今日は洗粉ば下の箱ん中に入れ様と云うて、その感動が起こると云う事では無いと思うのです。そん時の、あの、これはどうちゅうとです、そう云う心がね、私は気感に適うとじゃなかろうかと、特別ほんなら善行を施した訳でもないけれども、そう云う心使いなのですね所謂る。
 だからあれが、例えば私気分が悪い時にはろくそなか、こんな人ばっかりはかたずけもせんな、もうわざと高っか所に、届かんごとわざと高か所へ上げとけとち云うごたる風な、事はだから綺麗に神の気感んに適わんといった様な事になる訳なんです。
 そうですよもう本当、もうろくそなかけんこんやつは、直してといてからもう探すまで出してやるまいと、昨日もそげなお届けがあったんです。息子さんにそのダイヤの指輪とヒスイの指輪を、息子の嫁と自分の娘に形見にやる積りで大事にしとんなさるそうですたい。
 所がその方はそうにゃろくそなかそうですもん。そのだからその、洗濯場に置いたりどこにでん置いちゃるけんで、もう、まあ今度御主人がですね、腹かきなさったじゃろうとち、云うとこです、それがなおして一週間にもなるばってん、出してやんなさらんそうですもん。
 それけん、主人が出しますごと云うちからお届けがあったんです。だからその御主人が、モヤモヤしておんなさいますたいね、あんまりろくそなかけ、そっで、分からんとけ、なおしとこ、ち言うごたる風で、しとんなさっとでっしょうばってん、そりゃもう懲らしめの為でしょうけれどもね。
 まあーあのそう云う心は矢張り神の気感に適わないね、それと反対の私の夕べお行なった事はなんとはなしに、神の気感に適うのでしょう、私の心の中にたったそれ位の事が感動になって現れて来るんですもんね。
 だから一字が万事にですもう、貴方方の周囲を見てご覧なさい、はあーあの人はあんなに修行が出来るのに、惜しか。もうーなんか一言いわっしゃりゃムカッとするごたるこつば言わっしゃると云った様な物が、こちらの感に障るのです。
 そげん大した信心は出来なさらんばってん、成程そのドォーンちゅうごたるふうなまあ、破れ太鼓を叩いたごたる音をする人はあんまり障らんでしょうが。それかと思うと、チンち云えばカンち云うごたるふうな、言い方をする人の場合はやっぱカンに触るです。
 だから、そげん必ず気の利いた人が、ぼんやり成りなさいち云う訳ではないけれどもね、そう云う心掛けが大事なんです。いわゆる、言わば空が神下が神なんですから、もう全てを拝むと言う気持ちだったら、例えば気の利いた人がです。
 私は今日は、そけ、そう、末永さんがやって来ましたもん、そん、私が秋山さんに話しよっ時に、そいで、末永さんあなたも今日の今のこの秋山さんに 言いよっとを聞いとかんの、あんたがもう本当に、これ位の修行が出来る人はないのにも関わらずです。
 その思うたり私が思うだけじゃない、人もいよるよ、あれだけの修行が出来ておるのに、なんか、人をムカッとするごたる事を、針で刺す様な事を言うたり、態度を取ったりする様な、事があるから、もうそう言う時にその人との間にですね、断絶状態が生まれる訳です。
 本当に、その人の何か上に、何かが育ちよる訳ですね、友情なら友情が。良い人だと、中々良い信心が出来なさると思うてこう、育ちよる物がですね、たったその事で、ぴしゃっと絶縁状態に成るんですよ。だからまた、初めからやり直さん成らんと云った様な感じがする。
 だからあの神の気感に叶うと云う気感と云う事はね、そう云う内容がある様に思います、ただお心に叶うと言った様なものだけで、お心に適う信心修行が出来ておる、人が真似ん出来ごたる修行が出来ておる、のにも関わらずです、その、時々相手の感に触る様な事を言うたりしたり、平気でする様な事が、私共にはあるわけ。
 だからそう云う所を直して行くと云うか、改まって行くと云う事になるにはです、私共が全てを拝むと云う態度ですね、全てをまた拝んで受けると云う態度がですね、必要じゃないかと。
 皆んなが使う言葉ですね、神様の今日も一日ご気感に適う、一日であります様にと云うのは。お心に適う、一日であります様に、て、そう中々お心に適う、一日なんかて出来るもんじゃないけれども、神様がね、まあまあ仕方がないと、または不調法しておってもですね。
 まあ返ってその子供が障子を破る様な、時でもですねその感には触らんでしょうが。それを知っとって破ってんなさい、やっぱりこん奴ばっかりはちゅう様もんですてね、私共の場合はそのまあ、神さまの目から御覧になりゃ子供の様な、その、他愛のないお粗末ご無礼は沢山して居りましょうね。
 けれどもその、感に触ると云うのは、だからそう云う事じゃないと云う事ね。ちょっとした自分の、心掛けでですね、その気感に適う信心は出来んけれども、なんとはなしに神様の・・
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